中津で(西郷を慕う)増田宗太郎の碑を発見

7月に「第9回青年の船」会合で山口に行った際、友人と話していて私の故郷「中津」にある増田宗太郎の碑を訪問した、との話を聞いた。
歴史音痴の私にとっても増田宗太郎は初めて聞く名前であった。

その友人曰く、
「何年か前、中津を訪問し、中津藩士 増田栄太郎氏の碑にお参りすることが出来た。
増田栄太郎氏の言葉に
  「吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接すること
  を得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば
  三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪
  も死生を共にせんのみ。」
の言葉に感動をうけた」と。
  ・・・・・・・・・・・・

その場所は福沢諭吉邸の隣だということだったので、同級の知合いに連絡して確認したところ色々と教えてスムーズにその場所に到達することができた。

100坪はあろうかというその場所は福沢邸に隣接し「増田宗太郎生家」の表示があり、中央部には石碑が建てられていた。中津指定文化財(史跡)の表示がある。


福沢諭吉旧家


福沢旧家に隣接している増田宗太郎の碑(元々ここが生家)


更に説明には

〇 9月1日、西郷軍は鹿児島に突入し城山に立て籠もった。宗太郎は残る中津隊員に
 故郷に帰ることを勧めた。隊長は、との問いに「余城山に入りて初めて西郷先生に接し
 敬慕の情禁ずべからざるものあり一日先生に接すれば一日の愛あり。十日接すれば
 十日の愛あり、故に先生の側を去るに忍びず、先生と共に其生死を同うせんことを誓
 へり」と語ったと云われる。

 9月4日、米倉への夜襲で戦死。また米倉の攻撃で捕えられ9日に斬首されたとも伝え
 られている。

〇 一方、立て籠もる西郷軍は約3百、包囲した政府軍は約5万。午前4時、政府軍の
 総攻撃が開始され、午前9時までに西郷軍は壊滅した。西郷隆盛も、別府晋介に介錯
 を命じ自刃した。


増田宗太郎(NAKATSU TRAVEL BOOKから)

中津に帰省・・・洪水、祇園祭は今最中!

 母親の7回忌法要のために中津に帰郷した。
息子として親族の方々に挨拶させて頂いたが、母親への関りと思いは強い。
母親から受けた恩の一部を思い出すままに披露した。母親にゆかりの深い人達の集まりだけに良かったと思う。

今回の帰省で建具職人をしていた父親が使っていた古くなった金槌等数点を奈良に持ち帰ることにした。作品製作の仕上げにこの金槌で「コンッ」と叩く。
それで父親の力も加わって完璧となるはずである。
萩の友人のアドバイスを思い出した。

色んな人に話を聞いたが耶馬渓方面の洪水の被害は1000年に一度ともいわれる大規模なもので、あったという。地域のどうしょうもない嘆きを聞いた。
1回目の洪水の後は何とか修復しょうとしたが2回目はそれ以上のものでもう修復する気力さえなかったという。

中津から被害の最も大きかった守実地域への道のりはその修復には6ヵ月はかかろうということだった。
洪水で田畑が流され田畑のあった場所は岩が流れ込み転がっていて手がつけられない岩山の状態だという。残念ながら時間の関係でいくことが出来なかった。


丁度、中津では中津祇園が開催されていた。
城下町中津ならではの長く続く文化である。ここは耶馬渓とは違った風景が展開されていた。
市内13地区が祇園車をもち、それぞれ夕方に福沢通りに練り歩き集結する。煌びやかに着飾った踊り子が眩しいほどである。

地車がメイン場所に停車し音楽と共に踊り子が踊り始めるとその前にはカメラが200〜300〜400が並びシャッター音が響く。迫力のあるすごい場面である。
その間の曳き手の様子はその持ち場に立ったままで如何にも誇らしげに見えるのが良い。

踊りが終わると「チキリン、チキリン、チキリンコンコン。チキリン、チキリン・・・」と特有の音色と共に勢いよく走り去っていく。これがまた粋である。
その後、順番待ちの次の地車がスピードを上げて入ってくる。

中津の祇園、胸躍る楽しい祭りである。
聞いたところによると中津とその周辺から3〜4万人が集まるという。
沿道は全て歩行者天国、思い出深い祭りとなった。







(了)

恩師 藤崎先生のこと。

 昨夜、突然に大分県立中津南高校での担任だった藤崎先生から電話があった。
出版前の「ノープロブレムindia」(文芸社から5月に出版)をお送りしたことのお礼である。

電話口に出た家内に対し開口一番「今回は太君が本を出されたそうでおめでとうございます」といって私に代わった。

藤崎先生は
〇 すごいね!あなたが本を出すとは思ってもいなかった。自分の生徒でこれまで5人程本を出した 
 人がいるけどまさかあなたが・・・ビックリしました。中村君や戸田君、徳永君ら親しい仲間にも
 送ったの?
 旅行でインドの人達の話が出てくるけど言葉は分かるの? 
 
〇 ブログも読んでいます。家具工芸専門学校を卒業したんですね。凄い。年齢は何歳になったの。
 (また家内に対してどういう意味か、あなたも大変でしょうと云ったそうである)

それにしても先生は72歳になるのですかね。九大を出られ初めての担任が私のクラスであった。
女性ということもあったが人気の先生で今も多くの生徒が慕っていて毎年自分の誕生日に水彩スケッチ入りの近況報告が届いてくる。

先生は退職後、村山富一首相時代に大分県・同党から総選挙に出馬したほどである。政治的にも活発である。

今なおゴルフをしたりで、声の張りもあるし元気そのものである。

国語の先生だった。その面でも教え子の本の出版は嬉しかったのかもしれない。
ビックリするほどの話ではないと思うのだが、国語のできからして想定外でビックリしたのであろうか。

先生とは今なお中津でクラス会を開いたりしている。

(了)

中津に美味いものあり!

 中津は食べ物では何と言っても「から揚げ」が有名である。からっと揚がったから揚げをぱりっと食べるのが良い。

それから宝来軒のラーメン。昭和30年代ころからが全盛だったように思う。
麺が細めでとんこつ味で本当に美味しかった。中津出身者で宝来軒のラーメンを知らないものはいない。それで一店だった店が今やチェーンで8店に増加している。

つまり誰も彼もが宝来軒が好きだった。薄い焼き豚が2枚入ってスープもこってりしていてそれが良かった。それで中津出身者は今でも中津に帰ればこのラーメン屋に立寄って一杯食べてから家に向かい、中津を離れる時にもう一度ここに立ちよる。少なくとも同窓生と話すとこんな話になる。「3丁目の夕日」世代である。


今回知合いに連れられて北海道料理の居酒屋「かぼす」を訪れた。(かぼすは大分名産)
場所は中津市上如水350−4 TOTO(東洋陶器)直ぐ近くである。(電話0979−33−1787)
北海道出身のおかみさんがいてその母親も手伝う家庭的な店です。

主人は東京、山口始め修業を重ね最後に北海道で5年間修業し5年前に郷里・中津に帰って開店したという。

店の看板がグッとくる。
「一生懸命営業中」と。
中津の有名店としてご推薦します。

また、お土産としては評判は大貞の「徳永菓子店の万年願餅、マルボーロ」、
日出町にある「作って売る店・佐伯屋」には落雁、ういろー、かんころ餅と懐かしいもの揃いです。これらには全国から注文が入るそうです。

まさに中津が誇る職人の技といえそうです。



一生懸命営業中、の看板あり

店長〜店内の様子


徳永菓子はマルボーロが有名


店長がポーズをとってくれた。

中津から帰ってきました。故郷は良いですね。

 昨日13日、中津から帰ってきました。
お世話になった親戚の方の通夜・葬儀に参列しました。東京始め各地に散らばった親族の方々と再開できたことを嬉しく思いました。

故人(87歳)人々に慕われ、御家族を立派に育てられとことに感銘しました。老人会長や友人代表の弔辞がそれをそれを物語っていました。涙が枯れるほどでそれでいて大きな功績は本当に爽やかでした。
私も少しは見習いたいと・・・・。本当にバランスの素晴らしい方でもありました。

私も本家に宿泊し、親族・両親の墓参りをしてきました。長男の息子が家をとり1歳になる男の子も生まれ希望の灯が灯ったと言えそうです。

あまり回ることが出来なかったのですが中津の町は随分と変わりました。
昔の知り合いに何人か会いましたが故郷は自分の原動力、それ以上でも以下でもないのですが人間のつながりは故郷に帰ってきたいという思いにもなりました。

知合いの柔道部の先輩にも会って学友の消息を聞きました。
山や川は昔の面影がそのまま残っていて迎えてくれました。
そういう所を散策するのは時間の経つのを忘れるほどです。いくらでも歩きたい。

やはり故郷ですね。
この町にアクセスを持ってちょくちょく帰ってきたいものと思いました。
父親の仕事場・工房もそのまま残っているし・・。

不在の間に沢山のメールを頂きこれから返事も書かなければと思っているところです。
一部出版前ではありますが本を送りました。意外な人の感動的な手紙もあって反応もそこそこ良さそうです。
思いきって出版して良かったかなと思っています。

(了)

中津へ帰ります。

今日は東日本大震災が発生して1年が経過しました。厳冬の中で期待したようには復興は進んでおらず瓦礫の処理さえままならない状況で現地では今なお苦悩の日々を送られています。
今一度、国中が自分のこととしてまとまなければならないときでしょう。
ーーーー

 今日11日から親族の葬儀で中津へ帰ってきます。
大変お世話になった方です。母親の親族で87歳の天寿を全うされました。元少年飛行兵、出撃の直前に終戦となるなど波乱万丈の人生でした。
奥さんを早く亡くしたことが何よりも大きなショックでした。

覚えているのは高齢になられてから不動産業や2級建築士の国家資格をとり不動産業・工務店を営み頑張って来られました。よく勉強したというのが自慢でした。お孫さんを医者にしたというのも生き甲斐でもありました。

昭和50年4月、私の結婚式には私の両親と一緒に今のJRに乗って大阪まで来て頂きました。
また自分史で親族と自分の生き方について著されました。わたしも一冊送って頂きました。
中に私の事も入れてくれています。

偶然というか私の「ノープロブレムindia」ができあがり発行前に自宅に発送したところです。
本は今日頃届くはずでしたので残念ながら読んで頂くことができませんでした。

ーーーーーー

自分が今あるのはこういう親族がいてと思うわけです。
JA葬儀場で今日は通夜、明日が葬儀です。
この機会に墓参りもしてきます。

(了)

中津に帰り、義兄の葬儀に行ってきました。

中津で義兄の葬儀に出席してきました。
76歳。脳梗塞でしたが長い闘病生活のなかで人生を終えました。期待していた長男を20年前に24歳で事故で亡くしてから姉は取りつかれたように仏壇の前にじっと手を合わせる日が続いていました。(今でもその子がこの前TVに出ていた、生きていると言います)

義兄の遺体を送り出すときに一言何かを話しかけていました。
聞くと、嫌々ながら「〇〇ちゃんが待っているからね!」という。

姉は義兄に対しては家での看病が中心で全身をお湯で拭いて、さらに臀部に床ずれを作ってはいけないといつも洗濯したきれいな下着に取り換えていました。優しい言葉でその都度語りかけていました。
姉は69歳。働きもので今なお、頼まれ2カ所で働いています。
次男が傍におりますので頑張れます。

姉の献身的な看護を義兄の兄弟はすべて分かっていてただ感謝の気持ちだけが伝わってきました。
今回義兄の兄弟とその子供達にお会いし、色々と話をする事ができ、感じることも多くありました。
身内と云うのは心を許せて一緒にいてホッとしますね。
エネルギーをもらいます。

私も4人いた兄弟は上の2人は亡くなり、現在は姉と2人です。
何かにつけて私に電話してきます。
お互いに長生きしなければと思います。

お坊さんの説法も良かったですね!
日本人には仏教があうのでしょうか。

帰りに28万石(から揚げの飲み屋)でから揚げを食べました。
から揚げは中津が元祖。からっとした味は絶品でした。はい!

ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず・・。

福沢諭吉が学んだ 「適塾」を訪ねた!

 大阪に出た際に中央区北浜3丁目にある適塾を訪ねた。郷土の福沢諭吉が学んだ塾である。
地下鉄御堂筋線「淀屋橋」から東に徒歩3分と近いところにある。

適塾はビルが立ち並ぶ中にあって古い木造2階建ての建物である。現在大阪大学が管理していて
10月22日〜23年3月31日迄防災設備等改修工事のため休館中

この建物は蘭学者「緒方洪庵」が弘化年(1845年)に買い受けて移り住み文久2年(1862年)幕府の医師として江戸へ帰られるまでの17年間にわたって私塾「適塾」を開いたところである。
2階建てで一階が教室、ニ階が塾生の部屋という。

緒方洪庵は諸国から集まった門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人材を育てた。

1845年から1862年まで開塾し、全国から集まった636名が学んだ。その中には福沢諭吉や大村益次郎の名前がある。

因みに塾生は山口県56名、洪庵の出身地岡山県46名、大阪府49名が多かったようです。


近年では松下幸之助さんの「松下政経塾」がある。松下さんの思う通りの素晴らしい政治家が沢山育っている。どういう訳か民主党に多い。

しかしながら民主党の現状は悲しい。菅・仙谷ラインは政権にしがみつき、仕事の能力でなく思想で固め、その結果、トンチンカン・朝鮮半島有事の危機管理にも対応できない人材を登用している。
日本は益々孤立し、停滞し、糸の切れた凧状態になっている。

今、各家庭で語られる話題は政治である。それは誰が考えても分かる事が出来ていないことの不満である。
子供たちまでが政治を熱く語り始めた。
政治が自分たちの時代を作っているということを知っているのである。



適塾 大阪の中心に大事に保存されています。


案内板


緒方洪庵像

平成22年11/14 中津南高 関西同窓会 (諭吉生誕の地で)

 中津南高関西同窓会が11月14日 慶応大阪リバーサイドキャンパスで開催された。
全員で60名、御来賓に中津から和田本部会長、小林校長、八崎事務局長等が参加して頂き和やかに歓談しました。

最初に講演会、25回生(昭和48年卒業)加来さん(大阪歯科医師会理事)が「中津出身の歯科医師・第1号・小幡英之介」の紹介とインプラントの興味深い話がありました。

中津には医師・歯科医師を沢山輩出しているんですね!小幡先生の像が中津城公園にあるそうです。

その後、隣の中国料亭「追立」ホタル町店で懇親会に入り、まず新旧役員の紹介です。
本部会長より中津城が埼玉県の福祉法人(宇佐出身)の方が5000万円で買い取ったという話。しかし、運営は継続しているとのことでした。

「から揚げ」で有名な中津は〜聖地から揚げ〜を売り出している。(宇佐の元祖から揚げに対抗)

小林校長から在学生は591名がいること。今年は進学も東大、京大始め躍進していること、南北親善球技大会を開催したこと等の紹介がありました。

紹興酒を沢山頂き、浦部さん(歯科医)とも楽しい語らいの同窓会になりました。
出席して一体感を感じます。

ビンゴゲームの後、福沢諭吉が生まれた中津藩・蔵屋敷(堂島〜直ぐ傍)のあった場所に記念碑があり記念撮影を行いました。

中津市民にとってこの地は聖地です。


新旧役員 ご苦労様 中央が板山新支部長、岩丸副支部長、森久事務局長





福沢諭吉生誕地 〜 こんなところに記念碑があったとは・・・・。
福沢諭吉は1歳半まで大阪にいて、その後、中津に帰る。更に青年期に長崎で学び、そして再び大阪・中央区の緒方洪庵(適塾〜この近く)に学ぶ。

耶馬渓・青の洞門、案山子ワールド

 中津の駅には「案山子ワールド」のポスターが飾られていて、耶馬渓への観光客誘致を図っている。果たして案山子で何が起こっているのかと感じつつ・・・。

早速、仲間たちと車で訪ねた。

耶馬渓線という鉄道が無くなって不便になったが車なら2〜30分もあれば着く。
今回の同窓会仲間と一緒に行った懐かしい場所でもある。

残念ながら洞門周辺の紅葉はちょっと早く、あと3週間は必要であろうか。
日田方向に向け更に奥に入ると田圃の中に色んな形の「かかし」が見えてくる。

その案山子を見るために車が増えているような気がする。他府県ナンバーも混じっている。
始めて見ると本物の人間みたいでドキッとさせられる。
休耕田を上手く利用し、色んな人物・物語を作って、案山子には着物・服を着せて展示している。

聞くと、これは各地区の代表作品を展示させて最後は順位を決めるそうである。
果たして観光客を誘致する事ができるのであろうか。
まずやってみて成功するかどうかは結果を見るしかない。

更にびっくりするのは各地で展示されている案山子ワールド全般の写真コンクールを行っていることである。投稿する見学者は良い写真を取るために何回も写真を取るために訪れるということだろうか。
近くにレストランや土産物屋も並んでいてしっかりビジネスにつなげている。
一村一品運動の大分県。期待できそうである。

何故案山子なのか、案山子の歌は大分県出身のサダまさしが唄っているのでその関係か?
観光客誘致に向けた知恵合戦である。

ちなみに奈良の斑鳩でコスモスを休耕田に植えているが、ここ耶馬渓も植えていた。また兵庫県でも行っていると聞いた。
この案山子ワールドも成功すればコスモスのように全国に広がっていくのかもしれない。

しかし、見とれてしまってわき見運転で車の事故の無いように!


青の洞門
罪を持つ禅海和尚が断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を
落とすのを見て、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、ノミと斧だけで30年
かけて掘り抜いたといわれる。この川をボートを浮かべ楽しんだ。
〜恩讐の彼方より






46年前のキャンプで来た時の写真です。




案山子の綱引き


鬼退治へイザ!



花咲じじい



竜宮城に着きました。

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