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呼子 朝市の賑わい!2012・8・12

 呼子に帰郷し朝市を覗いた。
呼子には家内と結婚してからもう30年以上の再再訪である。

その都度、日本三大朝市と言われるこの地を見ているがホッとするし本当にこころが休まる。
魚を釣ろうと思えば釣り場はいくらでもある。
しかしじっとして何もしなければボケてきそうな気がする。

朝市を覗いて人々の生活の営みをみるとこの町は漁民の町であり、とれた烏賊を食べるため日本中から観光客がやってくる。
朝市はこの町の表玄関である。
そう思う。

この町に来たら何回も何回も朝市通りを歩いている。朝市を歩いていることでこの町に来たことを実感する。新鮮な魚、取れたて魚介を買って帰ることは楽しい。

「お兄さん、安くしておくよ!」と声があちこちからかかってくる。
行ったり来たりしながら400メートルくらいの朝市通りを歩いているとすっかりと顔見知りになっている。
それでもまた朝市に行くのである・
朝市・・この町そのものである。





佐賀・呼子の人達に触れて。

 家内母親の世話のため家内の実家の呼子に帰省した。

老人ホームに入所している母親を自宅に連れ帰り盆を自宅で送るためであるが人情味あふれる人々に接し心が洗われる気がした。

まず博多のバスセンターで唐津行の高速バスに乗車した。バスの運転手さんマナーの良さ、親切さとお客への思いやりを感じた。一人一人のお客さんに丁寧に声をかける。客を思いやる気持ちが伝わってくる。

バスで乗り合わせた中年女性は呼子の実家に帰るところで、すぐにお孫さんがイカを食べに来るということでその前に帰っておきたいと言っていたが、とにかく親切に質問したことにはこちらの身になって教えてくれる。決してでしゃばる感じではなく察知してくれるのである。呼子から車で送ってくれるともいう。

老人ホームでは母親を引き取ったが応対はよく、この日は老人ホームの夏祭りということで櫓を組んだり準備中であった。女性が二人綿菓子をせっせと作っていたので「珍しいですね」と話しかけるとこちらに一本差し出し「形が悪いですがよかったらどうぞ・・」とサービスで手渡してくれた。(こんな扱いを受けたのは本当に久しぶりである)

母親とタクシーに乗って自宅に帰る途中、母親が咳き込んだところ、運転手さんはこちら以上に心配して運転しながらも「大丈夫ですか」を繰り返したのである。

老人への接し方、マナー等は感動的でもあった。
とにかくこちらの人々は優しいのである。

私の住む奈良の人たちも優しいのであるがそれとはまた別の人情を感じる。
それは何なのだろうか・・。旅をする人を見て人はまた旅をするのだろうか。

暫くこの町にいてこの町の人情に触れてみたい気がする。
母親は自宅に帰ることが何よりも楽しみである。本当に嬉しそうである。

どこよりもずっと住んできた自宅をこよなく愛しているのである。
人はみなそうなのであろう。それが故郷なのである。
そう思う。

呼子の町興し 「甘夏ジェリー」

 今回の呼子、加部島の旅でこの町の人々の温かさ、優しさに触れたことを伝えたいと思います。
それは町おこしで始めた甘夏ミカンを使った甘夏母ちゃんの「甘夏ジェリー」です。
お名前は「山口さん」です。

「甘夏ジェリー」は天然のミカンの皮を容器にしていて保存料、着色料、香料は一切使わず、また夏ミカン栽培に使われる土は有機肥料、有用微生物群酸素等を活用していると言うことが人気を支えています。加部島の温暖で綺麗な景色と空気の中で育つ夏ミカン。さすがにイノシシも手をつけず見守っている。

今や日本全国にネットワークを持ち東京の有名ホテル始め全国の各ホテル・旅館・レストラン等で食後のデザートとして出される人気商品です。

味は甘夏独特の香りが広がって一度食べたらまた食べたくなるというもので製造している会社工場を訪ねて来る人も多い。若い人にも大変な人気です。前回訪問した際、福岡から来たという若夫婦が工場を探し探しやっとたどり着いて感動していて、その美味しさを話していたのを思い出しました。

母ちゃんは1人で家にいる加部島の母親「義母」のお世話をしてくれ、また今回も奈良に帰る際には唐津駅までレストラン等への商品の配達をしながら車で送ってくれました。

本当に友達を家族のように大切にして頂いています。御夫婦とも純粋で人柄の良さが繁栄につながっているのだと思います。製造が追いつかないほどでネットでも沢山の記事で埋まっています。
新聞。TVでも広く報道されているところです。

(似た商品もあるようですが「甘夏かーちゃんの甘夏ジェリー」がこの商品です)


夏ミカンの皮をくり抜いて甘夏のジェリーを入れる。
今までこのような商品はあまり見かけませんでした。だから香りいっぱいです。
因みに電話番号 0955−82−2920

呼子町! 「海の花火」と「捕鯨」の話を聞いた。

 平成23年の12月末、家内の母親の実家を訪ねた。わずか4日間であったが呼子町の朝市と加部島、その周辺を歩いてみた。

そういえば最近は年に1〜2回は訪問している。
家内実家の加部島。実家から海を隔てて呼子町が広がっている。
その距離1,5キロはあるだろうか。その間を漁船が「ポンポンポン」とのどかな音を立てながら通り過ぎていく。

日本3大朝市と言われる呼子の町はいつ来ても楽しい。
朝市通りを行ったり来たり何回も繰り返す。端からは端までゆっくり歩くと20分位の距離であるが干物や魚介類、野菜果物、漬物。。。等の露天商のおばさんたちを見るとついつい必要以上に買い込んでしまう。立ち止まってしまうと買わなければならないような気になってしまうのでできるだけ目を見ないようにして通り過ぎるようにする。

この時期、本当に寒い。訪問者も少ないような気がする。じっと座って売る方も大変であろう。



そして今回、知ったこと。
その1つが昭和26年にこの地は木下恵介監督映画「海の花火」のロケ地となった。木暮実千代、三国連太郎ら当時の大スターが1カ月間ロケを行い島をあげての映画作りが行われた。
合間には町民との交流で野球の試合も行われたという。



主演・三国連太郎               小暮実千代

この地について木下恵介監督が次のように語っている。
「6日、ロケ予定地の波戸岬、加部島、呼子町など下調べをやったが、ここほど変化に富んだ景色に恵まれたところはない。全国ほとんど歩き九州の南端鹿児島も見て回ったが今度ほど絶景のロケ地を得たことは初めてだ」と。
・・・・・・


その二つがこの地はかってのクジラの町である。江戸中期1700年台にこの地を拠点に捕鯨活動が行われていたのである。町営の博物館にそれらが展示されている。
近くの小川島を拠点にクジラの群れを発見し漁師が捕鯨用手漕ぎ船で囲み銛を打ち込んで捕獲するのである。年間60頭捕獲し、一頭が2000万円(現在の価格)したという。
クジラと共にマグロもこの海に沢山泳いでいたという。

クジラと共に命をなくす漁夫も多かったそうである。
そして加部島がクジラの解体場所として使われていた。
今は見る影もないが町をあげてクジラに湧きクジラの町であった。

呼子はクジラで栄え、クジラで終わったとさえ言われています。
朝市が今なお、その名残を残している。
そしてイカの活け作りはあまりに有名で全国から観光客が押し寄せている。


クジラ骨切り歌



今の呼子朝市とその周辺のスナップ。


椿油を販売中
母親がいつも椿油で整髪していました。とくにこちらの椿油はうまく整髪出来るとのこと。
我家でも使っている。


白いイカは透き通るようで味も甘いです。
アジのみりん干しも美味しい。
買えば2つ3つとおまけをつけてくれました。


朝市風景 年末もこの時期寒さで人の出も少ない。


呼子に登る朝日 (加部島からみた)

佐賀に帰ります!

 12月24日佐賀県は呼子町に帰ります。
妻の実家です。母親がいて12月27日までの滞在になります。
魚を釣ったりあちこち回って見物してきます。

母親は90歳、帰るのを楽しみにしていますので親孝行をしてきます。。

呼子 朝市とその周辺を歩いた!

 日本3大朝市、呼子の周辺を歩いた。
さすがに活気が感じられる。売り子は地元の人達で潮風に当たって健康そうな感じである。若い人もいるが母親みたいな優しそうな人ばかりである。

通り過ぎる時に後ろ髪を引かれる思いにもなる。
一元さんにも誠実に対応している。宅急便で送ってもらってもきちんとお釣りを入れてくれる。
信用第一、適当にしているところはすぐに噂が立って客はよりつかなるそうである。

海は水がきれいである。魚が泳いでいるのが見える。
パーマ屋さんが客の合間に船着き場で魚(オカズ)を釣っている。客が来ると隣の人が「お客さんバイ!」と云って呼びにくる。

パーマ店を覗くと、お客の髪を整えながら「遊んで行かんね!」とフレンドリーである。
馬渡島、加唐島にはパーマ屋がないので呼子まで来ると言う。

この町は何といっても「イカ」の活造りだろう。イカの獲れ高が減っていること、それに今はやや小ぶりである。味は申しぶんなかった。


ここは名所、待合場所に使われるとか。
まわりには太った猫が寝ていました。


このまろやかな美味しさを!


イカ活け造り 「やっと会えたな。いいちこ 金麹」


朝市風景





「半生を朝市に立つ頬かむり」・・朝市通り


特産 甘夏ミカン 甘夏母ちゃんの甘夏ジエリー(土からの有機農方)を作ります。


昇る朝日


馬渡島行きの船

唐津・名護屋村の「金助・吾助の墓」物語

 唐津市にある名護屋城址を訪ねた。
その際、「金助・吾助」の物語を知った。近くにこの2人の墓もある。

そばには次の看板があった。
江戸時代の中ごろ、唐津領は天候不順による凶作が続きました。名護屋村でも田畑の作物が枯れ果て、村人は木の実や葛の根、海藻などを食べて飢えをしのいでいました。

しかし、このような不作の年にも藩は容赦なく年貢の取り立てを通告してきました。
村では庄屋を中心に毎晩のように寄り合いを開き、

「このままでは飢え死にするばかりだ。村の窮状を藩主に訴えて年貢を減らしてもらおう」
ということになりましたが、後の咎めを恐れて誰ひとりこれを引き受けるものがいません。

そのような時、金助・吾助の2人の若者が、「自分たちには、身寄りの者もなく後の心配もないので、この役目は私たちに任せてください」と申し出てきました。

金助と吾助は、藩主が領内の巡視で佐志村に赴く事を知り直訴を決行しました。
幸い原書は藩主の目にとまり、年貢米100石が減免されました。しかし、当時直訴は天下の御法度でした。

これを破った2人は捕えられ西の浜で処刑されました。
この墓には「遺骸は片広山の西に葬って欲しい」という遺言により、龍泉寺大和尚が持ち帰った2人の遺髪を葬ったと言われています。・・・

<感想>
・・・・・・・・
これを許していてはけじめがつかない、として2人は処刑された。北朝鮮ででもないのではないか。
今でもこの種思想が残っているのだろうか。




唐津から帰ってきました。

 4月4日唐津から帰ってきました。
母親を訪ねました。
結局、母親はこちらには一緒に来ませんでした。色々と事情もありましたが年を取ると自分の家が一番なんでしょうか。

唐津に帰った際に、近くの島めぐりをしました。
過疎化が進む一方、イノシシが増加し田畑を荒らしている現状を目の当たりにし、農家の人達のやり場の無い御苦労を垣間見た思いでした。

それに漁業も魚がすっかり減少したとの話でした。
地震が多く日本近海から魚が逃げて少なくなっているとのことです。
油は上がるが魚は取れない!

佐賀県の馬渡島(まだらじま)と加唐島(かからじま)の訪問記を次会にブログ連載します。

(了)

呼子・加部島 思出の写真集

 呼子、加部島の写真集


半生を朝市に立つ”! (呼子朝市の碑)      呼子 観光案内



呼子に登る太陽





愛宕神社 〜 呼子は捕鯨の一大基地であったとの記載がみえる。



  愛宕神社                         

 

波戸岬の露店 サザエ、イカ、海産物等 ビールもノンアルコールも



加部島の案内地図

佐賀県立名護屋城 博物館  )臣秀吉の朝鮮出兵

 佐賀県立名護屋城博物館を訪ねた。
そこで同館総合案内という1冊の本を見つけた。
日韓の歴史問題が取り沙汰される中で、豊臣秀吉の朝鮮侵攻をまとめたこの本は平成12年に初版を出して以来、既に7版と重版されている。
私にとっては新鮮な一冊であった。まさに今ではとても考えられないことが行われていたのである。
秀吉の朝鮮への出兵拠点であったこの地を過去を率直に顧み将来につなげるという。
現在、この博物館には韓国からも女性スタッフが来日し勤務しているという。

<本の内容>
〇 博物館館長の博物館概要
  佐賀県唐津市鎮西町・呼子町・東松浦郡玄海町にまたがる特別史跡「名護屋城址並びに陣蹟」は豊臣秀吉による文禄・慶長の役による出兵基地であり、日本列島と朝鮮半島との長い交流史の中で、その関係を断絶させた不幸な歴史の舞台であったこと。

 名護屋城跡を中心に半径3キロメートルの範囲に広がるこの遺跡群は、日本の中世から近世への転換期のものであり、また、全国の130余の諸大名が集結し陣屋を構築して布陣するという、日本の歴史上にも類を見ない、広域かつ特異な遺跡群である。
 
 この様な歴史的意義の上に1926年に国の史蹟、更に、1955年に国の特別史跡に指定され、1968年に「肥前名護屋城図屏風」が発見により1976年から文化庁の協力を受け、県と地元市町により保存整備事業がおこなわれている。

 名護屋城博物館は文禄・慶長の役を侵略戦争と位置づけ、その反省の上に立って・・・・・今後の双方の交流・友好の推進拠点となる事を目指して、1993年(平成5年)10月30日名護屋城跡に隣接位置に開館した。

〇 歴史の中の名護屋城についての記述内容
 日本国内の統一を進めていた豊臣秀吉は、1585年の関白任官の直後にアジアの盟主を目指し対外出兵の意志を明らかにした。1587年の九州制覇によって、この妄想は現実のものと化し、1590年に関東・奥州を平定して統一を完了すると、大陸出兵計画は具体的となった。
 
 1592年出兵拠点である名護屋城の築城を前年から担当していた加藤清正・小西行長らの九州大名は、渡海命令を受けて釜山に上陸、ついに第一次侵略戦争が始まった。

同月末の秀吉着陣に前後して、名護屋には全国から諸大名が続々と集結して陣屋を構え、城の周囲には日本史上に例を見ない、大軍事都市がほんの3ヶ月で忽然と姿を現したのである。

 盛期を迎えた桃山文化に華やぐ名護屋に反して、戦禍が及んだ朝鮮半島は焼土と化した。

 朝鮮国側は軍や抗日義兵による激烈な抵抗を開始し、さらに明国正規軍も救援に乗り出す等、秀吉の予測に反して戦線は次第に膠着化していった。
 
 1596年明国の講和条件(朝鮮半島南半の割譲他)を秀吉は不服としとして交渉は決裂、第二次侵略戦争が開始された。
 
 翌年2月、再渡海した14万の日本軍は、南原(ナモン)など各地で明・朝鮮連合軍との激戦を繰り広げた。しかし兵量不足等の戦況悪化により日本軍は疲弊する一方朝鮮民衆に対する殺戮・掠奪行為も激しくなる。

 そして、翌1589年8月18日、秀吉の病没により7年間に及ぶ不毛の戦争はようやく終息を迎えた。

この戦争は、朝鮮国土を荒廃させただけでなく、豊臣政権自身の衰退をも早め、一方の明国もこの戦後に急速に崩壊の途をあゆむなど、東アジア情勢を一変させる不幸な結果を招いた。

また、日本軍による朝鮮国内での人的・物的掠奪により導入した文物・技術は、我が国の近代社会に多大な影響を与えたが、それに反比例して、朝鮮国側の戦後の復興には相当の時間を要したのである。






発見された肥前名護屋城図屏風
(了 〜 続く)

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