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  • 2017.09.24 Sunday
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730日の青春 А〆能 ZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL ヒッチハイクでタンザニア・ケニア旅行 

 帰国を控え、私は休暇を利用して、タンザニア、ケニアへのヒッチハイク旅行を計画した。タンザニアではキリマンジャロ登頂、ケニヤでは知合いの(柔道)協力隊員を訪問する計画である。
 
 若さというのは無鉄砲というか何でもやってのける、怖いものは何もなかった。とにかく人が行かないところに行きたかった。
 旅行していて現地の人が「ここでは日本人を初めて見た」と言われるともっと人が行かないところに行きたいと思ったものだ。
 
 バッグを背中に担ぎ日本の旗を付けて、日本人という事を宣伝しながら歩いた。今考えると恥ずかしい気がする。日本から柔道の指導に来ているというと、感心し、大事にしてくれた。

 ヒッチハイクで車を止めるのはちょっとしたコツ・技術が必要であった。普通に通行する車に手を挙げるだけでは止まらない。猿の格好をしたり変わった事をすると面白いやつだという事で止まったりするという。

 広い道路で大きなジェスチャーで手を振って、30分ほどしてに幸運にも1台の大型トラックが止まった。迷ったのだろう前方50メートルで停車した。

 ヨーロッパ系40歳位の運転手は「どこまで行くんだ? OK!途中まで行くので乗ってくれ」と親切である。 走り始め「何処から来た?」から始り、お互いに自己紹介をする。「日本人だ。柔道を教えている」というと日本人と言うだけで好感を持ってくれ、“凄い”という感じで打ち解けるのも早い。

 話す内に共通の友達の話が出てきたりする。狭い世界である。

 「ところで今日どこに泊るんだ?」となる。どこも決まっていない、と答えると「じゃあ、うちの家に来るか」となる。宿泊先の予定は元々ない。その言葉に甘えて宿泊させてもらうことになる。

 「食事もないだろう。何か作らせる」となり、使用人に命じて簡単な料理を作らせる。ヒッチハィクはホテル・食事付きである。

 家に泊めてもらって色んな話が聞ける。この時期はまだまだ国の運営に外国人技術者の指導が必要であり、アフリカナイゼーションはスタートしたばかりであった。

 沢山の白人(英国等)が技術指導で滞在していた。彼らも自国を離れ異国の地で寂しい思いをしている。初めてあったとはいえ気を許して仕事のぼやきも出る。

 翌朝には朝食も準備してくれて親切にヒッチハイクしやすい広い道路まで車で送ってくれる。不便なところなので旅人をそのまま放置することは良心的にも出来ないのだろう。

 ザンビアの体育教官がいつも言っていたのを思い出す。
「我々はよそから来た者には非常に優しく親切だった。旅人を見ると、何も言わずに先ずお茶(水)と食べ物を提供した。食べた後で初めて「どこに行かれますか、お手伝いできることはありますか?」ときくのが田舎での流儀だった。

 しかし、外国人が入植してきて、その辺にある金になるもの、果物等を採取し、自分らが取り込み、それを我々に売りつけるようになった。そういう中でザンビアの人々の優しい心は変わっていった。以前はこんなんじゃ無かった」と。

 関連して、私はザンビア人の田舎の家もあちこち訪問しました。貧乏で質素な生活をしていましたが心の優しい人たちばかりでした。純真で純粋でした。

 それでもこの時代はまだまだ人情味厚く本当に良い時代でした。現地の人達にお世話になりながら旅をつづける事ができた。(今現在はそんな事をしていたら物騒で仕方ないと思うがどうだろうか?)

 
 私はよく旅行したが柔道の教え子があちこちの警察署に散らばっている。近くに行ったら必ず勤務している警察署に教え子を訪問することにしている。タンザニアとの国境の警察署を訪問した際にも会う事ができた。その警察官は私を見るや懐かしさのあまりか飛びついてきた。嬉しい思い出である。

 タンザニアに入ってからはバスを利用した。現地の人ばかりが利用するバスに長時間揺られた。バスは何回もトイレ休憩、食事休憩をとりながら、あるターミナルで停まり夜を明かした。

 皆その周辺に寝転んで寝ていた。た私は持っていた寝袋に入りチャックを首まで上げてそのまま就寝した。迫ってくるような星空を見ながら、下の砂が生暖かく快適な夜だった。町は平和で何の心配もいらなかった。

翌日、バスはアフリカの屋根、標高5800メートルのキリマンジャロのふもとについた。

 キリマンジャロ登頂には5日間要した。30,000円支払ったと思う。1人に5人の案内人が付きテント、薪、食事等を運んでくれる。私が隊長である。1日目は20キロ位歩いたドろうか、疲れ過ぎて食事が食べられない。2日目は15キロ位、疲れと寒さで食べられない。3日目は揺れるように歩いた。登頂近くになるが中々登頂できなかった。時間がかかった。そしてやっとたどり着いた頂上は石ころが多く周辺には残雪が多く見られた。霧が出て下界が見えにくかったが達成感を感じた。

 その日は酸素不足と寒さでスープを少し飲んだ。下山は早かったが足の膝ががくがくした。5日目に下山し、麓の宿で体を休めた。キリマンジャロコーヒー店があって美味しかった。体重も6キロ程減っていた。
 芯から疲れた。

 ケニヤのキガンジョーという所に機動隊があり柔道を指導している隊員を訪ねた。行くまでが大変だった。バスに乗ると杖を持ったマサイ族(毛布を付け下は何もつけてない)だろう、沢山乗り込んできて匂いが大変だった。

 2時間位経っただろうかキガンジョーについた。協力隊員のHさんは仲間に完全に溶け合ってリーダーシップを発揮しイキイキと仕事をしていた。

 人間というのは何処でも順応力を持っている。馴れれば故郷であり、青山となる。この旅行では自分が体験した事の無い事ばかりだった。
 2年間のザンビアの生活は楽しかった。行けて良かったと思う。
 
(ザンビアの事は随分忘れましたが自分の記録として残し、これで終わります。有難うございます。次はインドです。新しい目で見てきます)

(了)

730日の青春 ─ZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL ヒッチハイク旅行 その2

 バスはキリマンジャロの麓に昼頃に到着した。
どうせならアフリカ最高峰の山に登ってみたかった。そのキリマンジャロの傍まで来た。

 聞くとこの近くで登山用具一式を借り上げて登るとのことであった。そして日本円で3万円が必要だった。この3万円は全ての費用を含んでいた。

 登山には5人の荷物(薪、食料、テント等キャンプにつかうもの)を運ぶ案内人が必要であり、スタートしてから下山するまで5日間ようするのである。

 5人のチームの先頭に立って登り始める。
1日目は20キロ位歩いたか、相当疲れてキャンプについた。疲れ過ぎて、食事を作ってくれるが食べる気がしない。

2日目も歩きに歩いて15キロ位か、足がぐらぐらするほど歩いた。ダブルの疲れである。簡単な食べやすい食事を作ってくれるがこれも疲労がたまったのとで食べる気にならない。テントでベッドを作ってくれるがたべれない。

3日目は頂上に近いところまで来る。空気が薄くなり、寒さとで動きが悪くなる。食べ物は全く口に入らない。せいぜいスープを口にするだけである。そして頂上にのぼる。そして下山し始める。

4日目はわずかの距離の頂上に登る。一歩一歩ゆっくりゆっくり揺れるように歩く。頂上に着くまで時間がかかるがついに到着する。
 見晴らしは良い。
 そのまま今度は下山し始める。足はがくがくする感じであった。

5日目はそのまま下山する。スピードは速いが膝ががくがくする。そしてようやくふもとにつく。
結局、最初の3日間は殆ど食べていない状況で疲れ過ぎた5日間となった。

アフリカの最高峰は凄い登山となった。

 宿に1日ゆっくりしたのを覚えている。下山したところにコーヒーショップがあった。そこのキリマンジャロコーヒーは美味しかった。コーヒーがこんなに美味しいと思った事は無い。 

当時、頂上への道路を建設中であったので、今ではバスがある程度の高さまで行っているのではないかと思う。多分3日もあれば登頂できるのではと思う。
 このように昔は時間をかけて登ったという事を知っていて欲しいと思う。

730日の青春 ΑZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL 日本食が食べたい。

 2年間のザンビア生活で日本人の方に食事面で大変お世話になった。
この国には商社、メーカー等で日本人が30〜40人いたが、遠い国柄、日本食レストランは1件も無かった。

 中華料理店が首都ルサカに1軒だけあった。しかし値段が非常に高く、皆で揃って月に1回だけ行くことができた。メニューは色々とあったが私には細麺の焼きそばが一番美味しく感じた。

 前にも書いたが毎日毎日、昼・夜と味付けのない炊いた肉と炊いた野菜ばかりだったので日本の味付け、日本食に飢えていた。食べない事には元気がでないので食べた。

 そのような中で大使館の大使夫妻には行事の節目に、みんな呼ばれて日本の食事をご馳走になった。

 たまに用事で訪問すると、大使夫人に「日本のラーメン食べて行かれますか?」と優しくいってくれた。醤油を頂いたりと色々とお世話になった。 (*とにかく何もない国である)

 N商社のご夫妻にも、ご夫人手作りの食事をご馳走になった。カレーライスは相当研究されていて味は絶品であった。訪問しては腹一杯栄養を補給した。

 1年程経って、今度は日本から通信隊員が6名配置され、協力隊本部から駐在員夫妻が配置になり赴任してこられた。色々と助かったし、お世話になった。

 自助努力もあった。
 宿舎の裏に雑草の茂った土地があって、(そこを使うようにいわれ)水をやっていると春菊の芽が出てきて育ってきた。日本から大根や白菜等の種を送ってもらい植えると立派に育った。

 醤油は大使館から手に入れ、チキンは教えている生徒が家で飼っている肉を持ってきてくれる。ご飯を炊けば立派な日本風の水炊きができた。その後は自炊した。来る日も来る日も水炊きを作り食べた。それでもまた食べたし、それで満足した。

 思いだすのは、学校の教官が空気銃を貸してくれ、それで雀を撃ち落とし、醤油と春菊をいれて雀スープを作った。スープが無くなったら、また水を入れて炊く、これを何回も何回も繰り返した。

 私は帰国してから食べられなかったインスタントラーメンを買い占めた。食べ物の後遺症ということであろう。今でもラーメンを見ると買い占めたくなるから困ったものである。家内は「前買ったものがまだ家にある」といっては笑っている。

 今家内が横にいて「そういう事があったのね〜、いつも体に悪いと言いながら買うので不思議に思っていたがそれで分かった」と。

(了)

730日の青春 ァEvelyn hone college

 ザンビアの警察学校で柔道を指導する傍ら私はザンビア単科大学のエヴェリン ホーン カレッジで柔道指導に当たった。

 ルサカで買物中、好感のもてる若い男性2人連れが私に「あなたは柔道を指導しているんですね。テレビで見ました。是非うちの大学で教えて欲しい」と言いよってきた。その時は軽く良いよ、と答えたがその際に、柔道着や道場も必要である。。。と話したのを覚えている。

 ところがルサカに出るためにその二人連れによく会う事になる。そしてその都度、柔道の話が出て必ず「教えて欲しい。多くの大学生が関心をもっている」と本気である。

 私は彼らに柔道の畳は、柔道着はあるのか?」と質問すると、クラブになれば大学として当然予算をつけるし問題は無い、と責任を持った答えをする。

 こういうのを何回か繰り返すうちに彼らも真剣に動き始めた。

 彼らは大学のクラブ活動として予算もとって、柔道着20着を日本に注文し、畳についてはベッド用のスポンジを購入し、その上にマットを敷くという事で色々と準備に入っていた。

 そして私の任期1年が経過する頃に注文した新品の柔道着20枚が日本から届いた。また、マットはこちらで直ぐに手に入り、畳50枚の柔道場が完成することになった。

 さて、数人の熱心な生徒の働きかけで大学に柔道部が発足、道場開きには大学の副学長が出席し、新しい部員40名の内、柔道着のある20名が早速、基本から練習をスタートした。

 学内で大きな話題となり、沢山の学生、職員らが道場の周りを囲んだ。
 学校新聞が色々と取材し、「大学で初めての柔道クラブが発足」の見出しで大きな記事を書いた。

 週2回の練習、体の大きい運動センスのいい者も何人かいた。みんな真面目で柔道が好きで真剣であった。私もやっていて楽しかったし、本当に遣り甲斐がいがあった。

 しかし、学生の身分、行事や試験もある。その内、練習参加者が少ない時もあって、私は大学で部員に「こんな練習ならもう来ない」と言い捨て帰った。
 ボランティアであり、金を一銭もとっていないので厳しくきっぱりといえた。

 ところが2日後、部員全員がバスに乗って警察学校の宿舎を訪れ「申し訳ありませんでした。これからはしっかり練習します」と謝ってきた。

 私は再び大学に行く事を決意し、指導を再開した。

 頑張っている生徒のために何かできないかと思っている時にリビングストンで柔道に取組んでいる知り合いから来訪の要請があり「出来たらその時に柔道査定をして欲しい」との要望で私はリビングストン行きを決断した。

 大学側とも掛け合って部員をリビングストン合宿につれていくことにした。大学生と地元メンバーとの合同練習を行い、更に柔道昇級査定をする事に決めた。合宿は短期ではあったが3泊4日とした。

 部員にとって3泊4日の旅は思い出になった事と思う。部員が学校以外の者と練習する機会を持ったことは新鮮でエキサィティングな出来事であった。掛けた技が決まった時の顔はこの上なく嬉しそうだった。

 練習の後に近くのビクトリア滝(世界最大)、自然動物園にも行った。皆楽しそうであった。
 
 大学の副学長は金がかかる事に最初ぼやいていたが許可をしてくれた。大学は部員全員の宿泊代、食事代、バスの移動費用等全てを出した。

 査定は沢山昇級させた。みな感動し、私の傍から離れようとしなかった。

 ボランティアの凄さをずっと感じた。情熱を忘れずにやっていきたいと思う。

(了)

730日の青春 ZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL 文化の壁を越えての授業


 私たちはリライの(全ザンビア)警察官養成学校に配置された。生徒たちは18〜25歳位までで、全般にスリムな感じが多かったが、中にはプロレスラーみたいに大きな者もいた。運動能力はサッカーに馴染んでいて高かった。

 ここで私は柔道(含む護身術・逮捕術)を担当した。40人学級で3つのクラスを担当した。(学校は4か月コースで各々柔道は週1回受講した)

〇 まず柔道は日本で生まれたこと、柔道を学ぶ目的、礼節を重んじる事、等について説明。

〇 最初は体育専任の教官がついて一緒に授業を手伝ってくれた。こちらの英語が彼らにうまく伝わらない。英語が分からない生徒が多く現地語の説明が必要だった。

〇 そのため授業はこちらの説明を体育専任教官が、現地語を中心に説明する形ですすんだ。質問がでるとホッとしたものである。

〇 柔道着を着せるのにも時間がかかる。まず正座ができない。正座の習慣がないので皆苦労して正座に取り組んだ。(正座を辞める訳にはいかない)

〇 準備体操をするのも大変、ここでは体操の習慣がない。軽いジャンプをするだけである。そのため怪我をしないためにしっかりやらせた。はじめこちらで示してやらせようとするがも全くできない。1つ1つの動作を区切って説明すると何とかできるようになる。知らない者に教えることの難しさをこれほど感じた事は無い。

〇 体育教官が傍につかなくなると早速授業がざわつく。何らかの手を打たなければならない。
 そんな時は全員に対し、彼らの苦手な正座をさせることにした。目をつぶらせ黙想をさせた。
そして静かになるまで正座させる事にした。(皆顔を歪めて苦しい顔をする)

〇 この国には連帯・全体責任の考え方は無いし誰も理解できない。「自分は悪くないと、自分は真面目にやっていた」と皆が言う。そんな時は、リーダーに声を掛け、連帯責任の考え方を説明する。「1人でも騒いだら、全員の責任であると」徹底した。 

〇 最初は戸惑った授業であるが徐々に馴れてきて皆真剣に聞き、取り組むようになった。技も習得し、乱取りも出来るようになった。

 皆を集めて話をする時間もとれる。日本の話をし、また彼らの話も聞くと皆目を輝かせて喜んだ。日本とは文化や考え方の違いが大きすぎると感じることが多かった。

〇 彼らは非常に純真であった。みな優しく思いやりを持っていた。こういう人たちの住む国にいたいと思った。
 遠い遠い異国でこのような貴重な体験ができ感謝している。

(了)

730日の青春 ZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL  警察学校へ、大統領の前で柔道演技

 翌日は、木村大使の案内で先ずザンビア警察本部にチェラ警察庁長官を訪問し着任の挨拶を行った。
鋭い眼光のチェラ長官は我々の到着を大変に楽しみにしていた、と激励。

 その後、職場となるザンビア国警察学校(リライ・ポリス・トレイニングスクール)を訪問した。ここは警察学校のための関係者が居住するキャンプで生活に直結した物を売る店舗、散髪屋等も揃っていた。
敷地も広大で1キロ四方はあろうかと思われた。

 早速、学校長に着任の挨拶をした。
 ピリー学校長は大らかなお父さんと云ったタイプであった。ムナルラ副校長は28歳の気鋭の警視(後に警察長官になる)で、このムナルラが我々の受入・世話担当と紹介された。

 ムナルラ副校長は我々が居住・生活する宿舎を案内してくれた。宿舎は単身者6人用の平屋で、各部屋はベッドルーム(8畳位)と12畳位のリビングになっていて、1人で生活するには十分なものであった。キャンプのど真ん中で便利が良かった。

* この場所はグーグルの地図を検索するとルサカの南東15キロのポイントに位置に発見できる。

 食事に関しては警察幹部のメスがあって、その一角を使用することになった。我々6名は朝、昼、夕食、それに午前10時のティタイムも設定されていた。ティーのお茶とサンドイッチは美味しかった。
 食、住に我々に対する最大の配意を感じた。
 
 しかし、昼夜の洋食の食事は、いつも同じもので炊いた肉とよく煮た(殺菌された)キャベツ等の野菜であった。日本食で育ってきた我々にとってはカルチャーの違いを感じることになった。しかし食べているうちに慣れてきた。若いからであろうか。

  着任するや否や、早速に警察学校卒業式があり(カウンダ)大統領が出席することが決まった。そしてその卒業式典の後に、大統領の柔道デモンストレーション視閲が組み込まれる事になった。

 場所はメス前の中庭、ここに急遽畳を敷いて行う事になった。それから我々の展示に向けた特訓が始まる。6人によるダイナミックな技を組み合わせて展示する事にした。
 
 途中から練習をスタートした「ザンビアの生徒も入れて欲しい」という要望もあって急遽特訓をすることになった。ザンビアの生徒は申合わせの投げ技の演技と受身をやらせることになった。

 商社ニチメンのA駐在代表に英語での柔道の紹介、司会進行をお願いした。
 
 大統領の訪問、ザンビアが招請した初めての日本人柔道家の演技ということで当日は政府関係者、学校関係者等沢山の観衆で埋まり、派手な柔道の技と技術に終始大きな拍手と歓声が湧いた。
 
 ザンビア警察官の基本的な技の演技にも大きな歓声と共に惜しみない拍手が湧いた。「我々の仲間が柔道で強くなっていると」

 演技の後、カウンダ大統領は我々を「日本から来た兄弟」と呼び、赴任を喜び期待を示した。この状況はテレビで放映され、新聞にも大きく報道された。我々は一躍有名人となった。

 
 そしてこれを見て、早速にザンビア在住のザンビア柔道王者のイギリス人が警察学校に我々を訪れ、真剣に「私たちに柔道を教えて欲しい」と申し入れてきた。
 
 私たちはこの事をムナルラ副校長に報告した。
 しかし、ムナルラ副校長の答えは「ノー」であった。

 「我々が彼らに柔道を教えて欲しいと申し入れたが彼らはそれに応えてくれなかった。だから我々は指導者を日本に求めたのである」と強い意志を示した。

 次は柔道授業について記します。

(了)

730日の青春 ZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL ◆ゞ力隊で訓練、出発

  昭和45年1月から渋谷区広尾の協力隊において3カ月間の事前訓練が始まった。派遣される隊員は150人位(女性がほぼ3分の1)だったと思う。

 柔道、バレーボール、水泳、日本語教師、通信、栄養士、竹細工、農業、ダム建設、・・・・・・と職種は開発途上国からの派遣要望によるものであった。

 各隊員は寮生活をしながら、英語を始め任国言語の習得、著名な講師等による世界情勢、任国事情等を学び、更に現地で指導する技能の習熟に努めた。

 柔道隊員は今回が初派遣となるザンビアに6名、そして継続派遣のマレーシアに6名等であった。みな講道館に出かけて練習し、講道館師範から外国で指導する上での注意事項、講道館との連携等について指導を受けた。

 憧れの講道館のスタッフが何でも相談して下さいと丁重に言っていたのが強く印象に残っている。

 柔道練習後の飲み会で「自分はマレーシアに骨を埋めるつもりでいく」と真剣に語った隊員もいてこの派遣に賭ける意気込み、野心を感じたものである。
 
 研修終了時には、派遣隊員に対する地方新聞等による取材が行われた。派遣されることがニュースでもあった。

 私は現地赴任までの10日余りの間に大分県中津に帰郷した。

 その後、母親は家内に対してその時の事を「遠い国に行く事で心配で心配でたまらなかった」と語っていたという。

 短い郷里での滞在中、次々に近所の人たちが訪ねてくれ、「ザンビアはどこにあるのですか、どんなところですか。私らにはさっぱり分からない・・」と質問したものである。
 
 また中津出発に際しては沢山の人が家に訪れ盛大に送り出してくれた。お世話になった人の音頭で皆で万歳三唱をして頂いたのが忘れられない思い出である


 このような事を云うのも、勿論記事にするのも今日が初めてである。

  その後、大阪に帰り職場の上司、先輩、同僚達への挨拶を済まし、私は大阪万博会場のザンビア館を訪問した。そこで初めて働く黒人女性を目にした。黒い髪の毛はチチレ逆立っていたのをみてカルチャーショックを感じた。

 我々柔道隊員6名は、1970年3月31日エアインデアで日本出発、ボンベイ、ケニヤと宿泊し、3日目に日が暮れてルサカの空港に到着した。

 大使館から木村大使が、ザンビア警察のコミッショナー代理と共に出迎えてくれた
そのまま真っ暗なブッシュの中を突っ切ってルサカの中心を通過し、そのまま宿泊先のインターコンチネンタルホテルに向かった。

 首都ルサカは明るい街灯で照らされ街は白人、黒人、インド人と混在し、人の通りも多く活気に満ちていたのが印象的であった。

(了)

730日の青春 ZAMBIA POLICE TRAINING SCHOOL 

 色々と記事を書いてまいりましたがここにきて私の青春であったザンビア共和国警察学校の2年間について記してみようと思います。これは本当に楽しい思い出で話が進みます。

 柔道指導で海外協力隊参加。この経験なしには今の自分は無かったと思うし、昭和45年から47年という時期は今では昔話ともいえる過去になりつつあります。
 
 23歳と若かっただけに、今も印象は強烈に残っています。当時の記録はしていませんが1つ1つを思い出しながらここで青春の記録として残しておきたいと思う。

 昭和45年と云うと私は大阪で勤務(公務員)していました。丁度、大阪万博開催の年でもありました。経済が飛躍的に伸び、2年後の47年には給料が3万5000円から70000円に倍増していました。

 この時以来日本人の給料は、つい最近まで右肩上がりを続けてきました。奇跡ですね。日本人のガンバリが40年、50年と続いたことになります。

 私にとって柔道は高校時代から始め社会人になってもずっと続けていました。強くは無かったですね。

 そんな時に、協力隊の柔道指導の話が舞い込んできました。協力隊制度が始まり3〜4年経っていた時でしょうか。

 柔道師範から「外国に行ける、協力隊の試験を受けてみないか?」と。
 どこの国に行くという話は無く、何カ国か国名が上がっていたようですが試験(実技)をしてその上で決めるような話でした。

 私はと云うとまさか合格するとは思っていないし、またどこでもよかった訳です。しかし、試験会場となる東京への出張費も支払われるという事もあって、とにかく東京に行きたかった。そしてほんのわずかな可能性に賭ける事にしました。

 東京での試験は語学力を問うものと実技でした。実技は試合で結果は2引き分けでした。やっぱりな、ダメかと思いました。試験の事は忘れて一緒に受験した仲間と共に、帰りは休みもとって伊豆の旅館で一泊し盛り上がりました。酔っぱらってふすまを破ったのは忘れられない思い出です。

 そして、大阪に帰ってきました。(大分県出身の私は当時、寮生活です)
 なんと、その夜に私宛に電報が届きました「エッッ、何ッ」 何と「協力隊の試験に合格した。派遣先はザンビア共和国。行く事に異議は無いか至急回答されたい」と云うものでした。

 その夜は興奮して朝まで眠れませんでした
まず、ザンビアと云う国がどこにあるのか、地図を広げましたがななかなか見つかりません。ようやく中央アフリカの南部にザンビアを発見しました。

   * 先般、ペナンで柔道指導の浜辺夫妻を訪問した訳ですが、一緒に受けた浜辺さんも合格、行先
    はペナンでした。 
   
 冗談半分でそれまで「将来は世界をまたにかける」とか云ったものですがそれが実現することになろうとは夢にも思っていませんでした。両親にも連絡しました。ただ戸惑っている感じでした。

 そして、その後全国から職種毎に派遣者されるものが東京都渋谷区広尾の協力隊事務局に全員集合し3カ月間の事前訓練が始まりました。

(続く)



 
 

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