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  • 2017.09.24 Sunday
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「青年の船」仲間と交流

 中津で2泊し、翌日は小倉に出てそこで第9回青年の船の仲間2名と落ち合い駅ビルで食事をしながら語らいあった。

下関に住む現自治会長(当時は班長として参加)Tさん、参加当時は金融機関に勤めておられたOさんと3人である。こうして3人が一緒になるのは昭和51年の青年の船以来でもある。

とにかく話して話して時間を忘れるほどだった。内容も尽きない。
私の本の出版の話もそこそこに今をどう生きるかの熱心な話が続いた。

Tさんの話はさすがに日本の厳しい生活風景が垣間見えたような気がした。今の自分たちは本当に恵まれているということだった。しかし若いものはどうか、仕事はないし収入は減ってその日の生活さえ困難だという。それが日本の現状なのである。何回もそれを繰り返し聞くことになった。

Oさんの話は農業に取組むこと、その中でタケノコ畑を5反ほど作って売り上げていくというもので将来を見据えた生活防衛の話となった。それと今の経済情勢をどう生き抜くかという話となった。
Tさん、Oさん共に経済には強く話もより具体的である。

今の民主党政権に国民は愛想を尽かし先は混沌とし、経済は不安が広がるのが目に見えている。
その可能性が高くなれば個々が生活防衛をしなければならないという話である。

本当に久しぶりの再会ではあったが平和な楽しい話にはならなかった。
このような青年の船の仲間を持てていることがどれだけ素晴らしい事かと改めて認識した次第である。

さて、今年7月第9回青年の船の会合が山口県で開催される。
みんなに会えるのが楽しみである。全国から100人は集まろうか。。
アナンド・シャルマの話を紹介したいと思う。

(了)

「青年の船」は今  (最終) 永遠に続け青年の船

 
5 「青年の船」事業を考える
   

  <2008年 第9回青年の船 33周年徳島大会 〜 永遠に続け交流会>

 〇 
青年の船の交流会は続く
     青年の船を下りて、それぞれに参加者は全国に、世界に沢山
       の友を得ることが出来た。そして、その友との交流がその後2〜
       3年毎に開催され現在も続いている。

    この写真は昨年の徳島大会の記念写真である。徳島出身のメ
     ンバーが長期間をかけて準備し、参加団員のお世話をする。
     (ご苦労様でした)

       * 次は2010年「北海道」の開催が決まっている。

    参加団員は童心に帰り、夜を通して懐かしき友と語らいあう。
    参加した女性の主人も参加する。母親も参加する。それぞれ
        が色んな人生を歩んできた、それを語りあった。。

 
 〇 若者の素晴らしい交流について思う
     現在は各府県主催の青年の船が全国的に活発に開催され
       ている。事業の素晴らしさを認識しての交流事業であろう。
     その中で、私が特に感銘した事例は次の点。
  
   
・ アラブの参加者の1人はやや高齢で地位の
      高い人物であった。最初は難しい顔をして何
      を考えているか分からず近寄り難い雰囲気を
      出していた。

    ところがである。船上でフオークダンスが開
     催され「マイム・マイム」「オクラホマミキサ
     ー」を一緒に踊りだすと終始笑顔一杯で嬉
     しそうだった。
    
    そのことがあってから完全に皆と溶け合い、
     今度は一転、みんなの人気者になった。フオ
      ークダンスの力は凄いと思う。
      これは日本の文化になっていると。

     一応、青年の船についてはこれでひとまず終わります。

(完了)

  

「青年の船」は今 ぁ)問した国々と青年交流

 

 〇 活動単位と活動(就寝)拠点
  ・ 300人の青年団員は組(30名で構成)と班(10名で構
   成)に分かれていて、大きな行事
等の取り組みは組単位で、普
   通は班単位で行動する。

   
   私の所属した13班はT班長の人望により、皆非常によくまと
      まっていた。(現在でも皆仲が良い。兄弟みたいな感じである)

   
  ・ 一つの船室(キャビン)には2段ベッドが2つ、4名が寝起
   きする。

    
    私は渉外(通訳)としてインド青年(アナンド・シャルマ)
   のお世話兼通訳に当たった。

      
 〇 外国青年の活動
  ・ 参加外国青年は大阪外大のM先生から日本の団員とは別メ
   ニューの英語による授業を
受けていた。

    M先生は人望があって知識豊富で外国青年の心を捉え、あこが
   れの的でもあった。

   
  ・ アナンド・シャルマはインド青年の中でも際立って大物で
   カッコも良いし、彼の周りにはいつ
もインドの仲間が取り囲ん
   でいた。

   彼に話しかけようとする日本人男女団員が沢山いた。

       (おかげで私も結構忙しかった)

  ・ 各班は1人ずつ配置された外国青年を囲み、語り合い異文
   化を吸収しあった。

    言葉はしゃ
べれなくとも若者は打ち解けるのは早い。
    それだけに別れるときは辛いものとなった。

        
(2) 関係国での青年交流
 〇 船が寄港地(訪問国)に着くと港で歓迎行事が開催され、訪問
  国関係者の訪船と親善交流
が始まる。

  船内では船に残った半数で日本文化を紹介し、残りの半数が陸路
  旅行でバスに乗り出かけて行った。


 〇 国内陸路旅行で旧跡めぐり、ホームステイ、本土で親善・文化
  交流を実施。夜には船に帰り宿泊する。


 〇 団長、副団長、一部団員の受入れ機関への表敬訪問

    クウェートでは私も呼ばれ、TVのインタビューを受けることとなった。
 

(3) 訪問地         

 〇 最初の訪問地はスリランカであった。
   港はどこでも殺風景であるがスリランカも同じであった。日本
  では2月の真冬であったが
ここは暖かい風が流れ心が和み嬉しく
  なった。


   スリランカの港で音楽隊による演奏と賑やかな歓迎行事が行
   われる。一方スリランカ青年達は
下船し別れていく。
埠頭で
   は涙の別れとなった。

        
    ぬけるような空の青さの中にヤシ、ココナツ、ガジュマル、
   ハイビスカス、ブーゲンビリヤ等
が南国の風情を醸し出し、
   スリランカに来たんだなあ、と感じる。


    買い物では安い宝石に関心が集まり、また南国の新鮮な
   果物に舌鼓をうった。


 〇 次はインドのボンベイ訪問と交流
   インドの青年が下船していった。涙涙の別れとなった。とこ
  ろが歓迎行事が始まると直ぐに、
今度はゲストとして訪船して
  きた。

   そして自ら先頭に立ち、団員をつれてあちこち買い物の案内
  に
たってくれた。


   ボンベイでインド青年議会主催による交流会が開催された。
  議長の挨拶のあと書記局長
アナンドシャルマが挨拶に立った。
   その堂々とした態度、話しぶりに皆がアナンドの凄さを感じた。   

   
   実に堂々としていてアナンドシャルマのことを本当に誇りの
  思ったものである。

   * 日本と異なりインドの学生運動は盛んで、政治との結びつきが
    強く、学生や多くの市民がこの運動を支え、政治家たちもこの運
    動を無視できないといわれインド政治に与える影響力は大きい。
    アナンドはまさにその学生のリーダーであった。


   
<ボンベイの港での別れ>   
   そしていよいよ出航する際には船の下に並んでインドのメ
  ンバーは思い切り手を振って送ってくれる。

  
   そこで、余ったインド通貨ルピーを封筒に入れ船から投げて
  渡そうとした。ところがまた投
げ返してきて受け取ろうとしな
  い、最後には「インドの記念に持って帰ってほしい」と。

    
   いよいよ日本丸が出始めると、今度は皆急に走り始めたかと
  思うと小舟に飛び乗っ
て追いかけてきた。

   みんながこの情景をデッキで見ていて、涙が出るのを抑える
  事が出来なかった。

     
  〜 この情景は誰もが鮮やかに目に焼き付いた。

       
 〇 クウェート訪問
   全員が農業大臣に招待されてのディナーとなったが、剣を
  持っての踊りが延々と続き、食事は深
夜の11時頃になった。

   
   ここは石油より真水の方が高いということだった。
  町で売っているものは食べ物を含め全て輸入し
ているとの
  こと。


   続く


「青年の船」は今  〜船内の活動

 3 船内活動と寄港地活動
 (1) 船内での活動
   〇 船内での一日のスケジユール
     ・ 午前7時起床、
     ・ 午前7時15分朝礼 
     ・ 船上で体操 
     ・ 午前 8時 朝食
     
     外国の青年は時間厳守の概念がないようで遅れることが多 く、苦労していた。

     自国ではうるさく言いうものがいなかったのだろうか。早く起きても いつも遅れがち
     でやはり国民性なのだろうか。幸い管理部の先生がうるさく言わなかったので
     ほっとしていた。

    ・ 午前中は授業(団長、副団長、船長等講和、各教官による訪問国事情、リーダー
     養成等)で、これまで聞いたことのないような珍しくて貴重な話が多かった。
         
   特に商船三井・弓場船長の話は人命を預かる立場と豊富な現場での経験からの
   ものであった。
     
     ・ 昼食
        食事の事に触れると、船内の食事はいつもいつも
             普通以上のごちそうだった。その点船長は「船内では食事が粗末だったりすると
      豊かな気持ちになれず、むしろトラブルの原因になりやすい。
 
      隔離された船内では食事で不満が出るようではいけ ない。食事には 特に気を使
      う。」との話をされていた。

        そして船が港に着くたびに燃料の補給とともに地元でとれた新鮮な魚類や
       野菜果物等を積み込んでいたのを良く目にした。

     ・ 午後も授業、柔道、空手、剣道等クラブ活動、お茶、お花、舞踊等の文化活動 
      〜これらの活動は港について訪船者を迎える際に文化の紹介に役立った。
      
            〜 柔道は訪問国において試合をして親善交流に大いに役立った。
     
     ・ 午後6時夕食 〜 その後はくつろぎの時間で語り合った。
     ・ 午後10時就寝夜はとにかく船の甲板で、サロンで、部屋(キャビン)で語り尽く
      した。
     
       私がアナンドシャルマの話すことを通訳し、仲間の質問をアナンドシャルマに
      投げかけたが若いだけにコミュニケーションの進むのは早かった。

     その中で「ふなよい、ともだち(船酔い友達)」
          という単語が生まれた。
     
     〜日本を出港して間もなく、船の揺れが激しく皆船酔し、食べたのを吐き出す等
      苦しんだことから生まれた言葉・・・・・戦友みたいなもの?

      * インドで有名なものとして、アナンドシャルマ曰く、
       
       @ スピッティングコブラ(木の上にいて毒をとばす。
           
       @ タンドリ-チキン
       
       大変においしいとのこと。インドの食事が食べられなかったので食べたくて
       仕方なかったのであろう。
       
       誰もが一度食べてみたいと思ったのは間違いない。
         
       * 誇り高いアナンドシャルマがいつも語ったこと
          自分はどんな誘惑にも負けない。いくら金を積まれても。
        
         と,国に対して非常に誇りを持っていた。

        (インデラガンジー派の若きトップエリートで後に国会議員になり青年議会の
         総裁になる。
                  〜私は後にインドに仕事で赴任しすることになる。

   
     続く

「青年の船」(総理府)は今  ∋臆辰靴真傭

 
2 船の目的、船に参加した青年達
 〇 この青年の船事業の目的
  ・  日本の国際的地位向上のためには世界各国と相協力して国際
        社会の一員としての歩みを進めていく必要がある。
    それら国々との真の相互理解を深めるためには政府
   間の接触のみならず幅広い国民的・草の根レベルでの
   交流が不可欠である。

 〇 昭和43年に第1回がスタートし、私が参加したのは昭和52
  年の約2ヶ月間に及ぶ「第9回青年の船」
でした。

 〇 出発に先立っての事前準備等
  ・ 出発3ヵ月前に参加者全員が富士の麓「御殿場」に集合し
   1週間の事前研修を行った。
    そこでは全体研修とともに編成される班単位(10名)、組
   単位(30名)での結束を図った。

  ・  天皇陛下への接見、首相官邸へ総理訪問、写真撮影
    三木首相は「資源のない日本は外国と仲良くしていかなけ
    ればならない」と。

  * 政府主催のこの事業は昭和43年以降、毎年300人、日本
   青年が国を代表して世界を訪れ若者等との交流を通じ国際親
   善の役割を期待した。


 〇 参加者、訪問国等
  ・ 日本の若者〜 各府県を代表して将来のリーダー養成という
   観点で選考された。
   参加者〜 各府県選考による農業従事者、農協職員、会社員、
       自由業、団体職員、公社員、教師、入管・税関・警察官
       等職員、家事手伝い等であった。

    300人の内200名は男性、100名は女性、、外国人は
   訪問国となるインド、パキスタン、スリランカ、クウエート等
   から50名。これに、日本の管理職職員約30名で総勢は
   380名。

  ・ 参加者は各地のリーダーで皆非常に意欲的・積極的であった。
   誰もが、「何でも見てやろう」という気持ちが漲っていた。
 
  ・ 30班あって各班のリーダー、渉外(通訳)は予め決められて
   いた。
  ・ 団長は読売新聞の論説委員(民間初の団長)、副団長は女性
   でYMCA役員

  ・ 外国の若者(インド、パキスタン、スリランカ、クウエート、
   アラブ首長国連邦他) 事前に入国し、予め日本の広島等
   各地を訪問し日本での研修を済ませていた。
       
    船が日本を出航する際に乗り込んできた。10人単位の班に
   1名配置され、船内で共同生活をしながら研修・交流をした。
   自国の寄港地で下船した。   
   〜 私の所属する13班には全インド青年議会書記
    局長
の大物が配置された。

  ・ 寄港地は日本文化と深い、そして長いつながりを持つ南西
   アジアの国々とイスラム文化圏に属するクウェートである。

   団長は船事業記事の中で「知的好奇心に溢れた青年達は飢
  えた鷹のようにびんらんな目で未知の世界に分け入り、沢山の
  収穫物を持って汽船した」
と記録している。

  次は 3船内活動、寄港地活動について報告します。(続く)

   

「青年の船」は今  昭和52年に参加して

 最近、近所の方で外国人のホームステイを行っている方から、「青年の船」の話を聞きたい」ということからお話をさせていただいた。

 その時は、昔の話をしてもあまりインパクトがないという感じから今一つ乗り気でなかったがどうしても青年の船の話ということから、了解し取り纏めることとした。

 その結果、当時の政府のこの事業にかける大きな期待が見えてきて、更にこの事業は現在も続いているという思いが強まった。今となって参加できたことが本当に良かったと思うわけである。

 平成19年、第9回(昭和52年参加)参加者の会合が徳島で開催され全国から100名が参加し(現在は2〜3年毎に開催・当時船参加の全体は約350名)旧交を温めあった。

 自分を省みて、友と触れて船参加が昨日のことのごとくであった。 そして賑やかな宴の中で生きている証を感じ、生かされている喜びを感じた。また、来年は北海道で開催される事が決まった。
青年の船は永遠に続くのである。

 「青年の船」の記事については今日第1回として連続で5回に分けて報告します。

1 結論として何が良かったのか
 〇 45日間の船の研修を通じ日本人としての誇りと人間理解、また外国人理
  解が深まったこと。

 〇 心を通わせる生涯の友を得ることが出来たこと。友という財産が残った。
     350人の日本人、50人の外国青年の交流

 〇 プログラムの内容は一方的に受ける勉強ではなく各自が考え、主体的に
  動いて創りあげていく、自分で創っていく。言われているのは青年が主体性
  を発揮できる場が実社会にはない。
政府はそれをこのプログラムに求めた。 
    行事をやるとリーダー、英雄が生まれていった。

 
    以下は続く

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